「青木周蔵」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
 
1行目: 1行目:
{{政治家
+
[[Image:Aoki Shuzo.jpg|350px|thumb|青木 周蔵]]
|各国語表記 = あおき しゅうぞう
+
|画像 = Aoki Shuzo.jpg
+
|画像説明 =
+
|国略称 = {{JPN}}
+
|生年月日 = [[1844年]][[3月3日]]<br />([[天保]]15年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]])
+
|出生地 = [[萩藩]][[厚狭郡]]生田村
+
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1844|3|3|1914|2|16}}
+
|死没地 =
+
|出身校 = [[明倫館]]出身
+
|前職 = [[外務省]][[次官]]
+
|現職 =
+
|所属政党 =
+
|称号・勲章 = [[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[子爵]]
+
|世襲の有無 =
+
|親族(政治家) =
+
|配偶者 =
+
|サイン =
+
|ウェブサイト =
+
|サイトタイトル =
+
|国旗 = JPN
+
|職名 = 第15代[[外務大臣]]
+
|内閣 = [[第2次山縣内閣]]
+
|選挙区 =
+
|当選回数 =
+
|就任日 = [[1898年]][[11月8日]]
+
|退任日 = [[1900年]][[10月19日]]
+
|退任理由 =
+
|所属委員会 =
+
|議員会館 =
+
|元首職 =
+
|元首 =
+
<!-- ↓省略可↓ -->
+
|国旗2 = JPN
+
|職名2 = 第6代[[外務大臣]]
+
|内閣2 = [[第1次松方内閣]]
+
|選挙区2 =
+
|当選回数2 =
+
|就任日2 = [[1891年]][[5月6日]]
+
|退任日2 = 1891年[[5月29日]]
+
|退任理由2 =
+
|元首職2 =
+
|元首2 =
+
|国旗3 = JPN
+
|職名3 = 第5代[[外務大臣]]
+
|内閣3 = [[第1次山縣内閣]]
+
|選挙区3 =
+
|当選回数3 =
+
|就任日3 = [[1889年]][[12月24日]]
+
|退任日3 = 1891年5月6日
+
|退任理由3 =
+
|元首職3 =
+
|元首3 =
+
|国旗4 =
+
|職名4 =
+
|内閣4 =
+
|選挙区4 =
+
|当選回数4 =
+
|就任日4 =
+
|退任日4 =
+
|退任理由4 =
+
|元首職4 =
+
|元首4 =
+
|国旗5 =
+
|職名5 =
+
|内閣5 =
+
|選挙区5 =
+
|当選回数5 =
+
|就任日5 =
+
|退任日5 =
+
|退任理由5 =
+
|元首職5 =
+
|元首5 =
+
|国旗6 =
+
|その他職歴1 =
+
|就任日6 =
+
|退任日6 =
+
|国旗7 =
+
|その他職歴2 =
+
|就任日7 =
+
|退任日7 =
+
|国旗8 =
+
|その他職歴3 =
+
|就任日8 =
+
|退任日8 =
+
|国旗9 =
+
|その他職歴4 =
+
|就任日9 =
+
|退任日9 =
+
|国旗10 =
+
|その他職歴5 =
+
|就任日10 =
+
|退任日10 =
+
|国旗11 =
+
|その他職歴6 =
+
|就任日11 =
+
|退任日11 =
+
|国旗12 =
+
|その他職歴7 =
+
|就任日12 =
+
|退任日12 =
+
|国旗13 =
+
|その他職歴8 =
+
|就任日13 =
+
|退任日13 =
+
|国旗14 =
+
|その他職歴9 =
+
|就任日14 =
+
|退任日14 =
+
|国旗15 =
+
|その他職歴10 =
+
|就任日15 =
+
|退任日15 =
+
<!-- ↑省略可↑ -->
+
}}
+
 
'''青木 周藏'''(あおき しゅうぞう、[[1844年]][[3月3日]]([[天保]]15年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[1914年]][[2月16日]])は、[[明治]]、[[大正]]期の[[外交官]]、[[政治家]]。[[勲等]]は[[勲等|勲一等]]。[[爵位]]は[[子爵]]。
 
'''青木 周藏'''(あおき しゅうぞう、[[1844年]][[3月3日]]([[天保]]15年[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]) - [[1914年]][[2月16日]])は、[[明治]]、[[大正]]期の[[外交官]]、[[政治家]]。[[勲等]]は[[勲等|勲一等]]。[[爵位]]は[[子爵]]。
  
140行目: 26行目:
 
== 家族 ==
 
== 家族 ==
 
[[Image:Old Aoki Shuzo's Nasu Villa House-20090503.JPG|thumb|[[那須塩原市]]に現存する[[旧青木家那須別邸]]。国の[[重要文化財]]。[[松崎万長|松ヶ崎萬長]]の作品。]]
 
[[Image:Old Aoki Shuzo's Nasu Villa House-20090503.JPG|thumb|[[那須塩原市]]に現存する[[旧青木家那須別邸]]。国の[[重要文化財]]。[[松崎万長|松ヶ崎萬長]]の作品。]]
 +
[[Image:青木周蔵と娘の花子.jpg|350px|thumb|青木周蔵と娘の花子]]
 
[[甲武鉄道]]会社社長[[三浦泰輔]]は実弟。[[養子]]の[[青木梅三郎]]は[[杉孫七郎]]([[皇太后宮大夫]]等を歴任)の息子。[[ペルー日本大使公邸占拠事件]]時の[[特命全権大使|駐箚ペルー特命全権大使]][[青木盛久]]は曾孫。
 
[[甲武鉄道]]会社社長[[三浦泰輔]]は実弟。[[養子]]の[[青木梅三郎]]は[[杉孫七郎]]([[皇太后宮大夫]]等を歴任)の息子。[[ペルー日本大使公邸占拠事件]]時の[[特命全権大使|駐箚ペルー特命全権大使]][[青木盛久]]は曾孫。
  

2012年9月17日 (月) 21:50時点における最新版

青木 周蔵

青木 周藏(あおき しゅうぞう、1844年3月3日天保15年1月15日) - 1914年2月16日)は、明治大正期の外交官政治家勲等勲一等爵位子爵

来歴[編集]

生い立ち[編集]

長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医三浦玄明の長男として生まれ、22歳の時毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者青木周弼(1803-1863)の明倫館好生堂(医学所)館長で後の宮廷大典医となる青木研藏(1815-1870)の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名した。

留学[編集]

明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て、1868年藩留学生としてドイツ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には、専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。

官界[編集]

1873年外務省入省。外務省1等書記官を経て翌年駐独公使。のち駐オーストリアオランダ各公使を兼任。1886年第1次伊藤内閣の外務次官。

政界[編集]

第1次山縣内閣第1次松方内閣外務大臣を務め対英条約改正交渉を行い駐英公使として領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。

帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前で大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れるとこれを伊藤博文井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。

1894年駐英公使として陸奥宗光外務大臣と条約改正に尽力、日英通商航海条約改正に成功。また第2次山縣内閣外務大臣として北清事変に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。枢密顧問官を経て叙勲され子爵1906年には駐米大使として移民問題の解決につとめる。

政策[編集]

外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。

留学生、公使として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。

家族[編集]

青木周蔵と娘の花子

甲武鉄道会社社長三浦泰輔は実弟。養子青木梅三郎杉孫七郎皇太后宮大夫等を歴任)の息子。ペルー日本大使公邸占拠事件時の駐箚ペルー特命全権大使青木盛久は曾孫。

栄典[編集]

著作[編集]

平凡社東洋文庫、1970年) ISBN 4-582-80168-4
(平凡社ワイド版東洋文庫、2004年) ISBN 4-256-80168-5

参考文献[編集]

  • 坂根義久『明治外交と青木周蔵』(刀水書房、1985年、2003年) ISBN 4-88708-069-7
  • 水沢 周『青木周蔵 明治外交の創造 青年篇』(日本エディタースクール出版部、1988年) ISBN 4-88888-140-5
  • 水沢 周『青木周蔵 明治外交の創造 壮年篇』(日本エディタースクール出版部、1989年) ISBN 4-88888-151-0
  • 水沢 周 『青木周蔵  日本をプロシャにしたかった男』上、中、下(中公文庫、1997年) 
『青木周蔵 明治外交の創造 青年篇』と『同 壮年篇』の改訂文庫版。
ISBN 4-12-202856-6、中 ISBN 4-12-202874-4、下 ISBN 4-12-202897-3
  • 岡田義治『青木農場と青木周蔵那須別邸』(随想舎、2001年) ISBN 4-88748-064-4

外部リンク[編集]


先代:
大隈重信
大隈重信
外務大臣
第5・6代:1889年 - 1891年
第15代:1898年 - 1900年
次代:
榎本武揚
加藤高明
歴代の外務大臣
外務大臣(太政官達第69号)
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号))
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -

田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂

外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号))
吉田茂
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号))
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号))
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦